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  • それにしても自分が弾くほうが楽しいのは。。。

  • 投稿者:川井 浩
  • 投稿日:2016年 4月11日(月)08時37分39秒
 
というご質問にはまだ回答できずにおります。 そもそもいい演奏、気に入った演奏とは何か? 気に入らないのは、何が気に入らないのか?
世にあふれる名演奏家の演奏を聴いて感動する場合もあるし、世界最高峰の演奏でも、自分の興味や嗜好に合わなければ感動しないとか、つまらない、気に入らないということになる。

そもそも、世界の音楽は、といわずとも、テレビ・ラジオから流れてくる音楽がすべて自分のお気に入りの音楽であるわけがない。 お気に入りの音楽家の演奏会でも出てくる音楽がすべて100%気に入る場合は、、、あるかもしれないけど、無いことも多い。

その基本的にな違いは、ActiveはPassiveか、と英語で言わなくてもいいけど、能動的か、受動的か、という日本語のほうが難しいか、、、その違いがあるように思われます。 つまり、Active、すなわち能動的、であれば、自らに選択権があるので、好きな曲を弾ける。 嫌いな曲は弾かない。 つまり、高級ビュッフェレストランで、好きなものをお皿いっぱい取ることができて、お替わりまでできちゃう。 いわば好きなものを食べ放題。 まさに夢のような世界が待っている。 食べ物の場合は、その後の肥満・生活習慣病の恐れがあるが、音楽にはそれが無い! オー、ワンダフル!
一方、Passive、受動的であれば、相手の差し出す音楽を、いわば定食で、メニューはあるが、選択の余地は限られる。 カツカレーとアンミツのセットとか、すしとエビチリのセットで、テキーラもつけてほしい、などという期待は満たされることはまずない。 で、いくらおいしいものでもお替わりはできない。 できたとしても、ライスとキャベツはお替りできます、というぐらいだ。 もちろん、とんかつを食べた後、キャベツにドレッシングをじゃぶじゃぶかけてご飯をお替りする大学の相撲部員などはそれでもいいかもしれないが、普通の人には、たまたまうまい、お気に入りの定食セットに出会えればラッキーだが、その保証はない。
まして、知らないレストランで頼む「今日の定食」には、昨日使いきれなかったイワシのフライとか、板さんお任せでは、賞味期限ぎりぎりの材料で作られる場合も想定されるので怖い。

高級レストランのビュッフェといわずとも、自宅で、好きなものをつくる喜びと満足感は、塩ラーメンに残り物の野菜を入れて、仕上げに豆乳を入れて作る僕の大好きな食べ物だが、最近はこれにカレー粉を入れて、ニンニク、ショウガを混ぜるなどのトッピングをほどこし、世にこんなにうまいものがあるのに、どこのレストランにも無い! という、自己満足・自分の世界を構築する喜びが生まれる。
たとえ、周りの人になんと言われようと、自分な好きな音楽を好きなように演奏するよろこび、それは、自分で世界を創造する喜びに通じるものがあるのではないか? そこにはタブーもなければ、禁じ手も無い。 まったもありだし、負けても取り直しもできる。 失敗しても、やり直しのできる人生がある。

そんなことは、この浮世では許されない。 社会的なバッシングを受けることになる。 でも、自分でやる音楽にはそれが無い。 自由だー! (古い!)。 Oh,Freedom!

みずからの音楽のエデンの花園に一人さまよい出ることができる。 そこには閻魔様も仁王様もいない。 いるのは、流し目の、ほほえみのミューズの神様がいるだけだ。
そこは、天国なのです。 そう、自分でアコを弾くということは、この世で天国にちょっと遊びに行くということなのです。

アコーディオンの名手は星の数ほどいても、自分の演奏技術はそことは遠くかけ離れていても、そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ。

ただ、人前で弾くときは、これをよく理解したうえで、自己満足の部分と、お客様に気にってもらえることを切り分けて考える必要がある。
選曲と演奏方法、さらには、お客様のとのコミュニケーション、そして、お客様に感動を与えられていないという失望感、そんなものと闘いながら弾かないといけない。
だから、自分で弾く楽しみと、それを聴いてもらって楽しみをShareできるということは、別の次元のことであるとはっきり理解する必要がある。

自分にってのエデンの花園は、他人にとっては、ごみ処理場の腐った生ごみであったりすることもあるということを忘れてはならない。 それはActiveかPassiveか、選択権・感受性がどちら側にあるかという基本的な命題で、これは思えば、讃岐のアコ吉様がご指摘をしていただいた、極めて重要な問題提起であったと思います。